• 太宗台
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住所 : 江原道横城郡講林面太宗路 287

太宗台は講林面雉岳山国立公園の券売場のすぐ上に位置した所で、太宗・李芳遠とその師匠であった耘谷∙元天錫に関する話が伝わる。高麗末、4処士の1人であった耘谷∙元天錫は、朝鮮王朝の太祖である李芳遠の師匠であった。耘谷は太祖が高麗を転覆して朝鮮を建国し、また息子らの血生臭い王権争いに失望と怒りを感じ、官職を拒否して開城を離れて講林里に隠居していた。王に即位する前の1415年、芳遠は元師匠である耘谷を訪ねて険しい山里であったこの地に赴き、彼を再び官職に就かせて政事を議論しようとした。

しかし、強直で気概のあった耘谷は、芳遠との出会いがはばかられ、雉岳山の谷間に身を隠し会わなかった。芳遠が自分を探していることに気づいた耘谷は、小川のほとりで洗濯をする老婆に、自分を尋ねて来た人があれば、横持岩の方へ行ったと伝えるよう頼み、耘谷は反対方向へと身を避けた。芳遠は老婆が教えた所に行き師匠・耘谷を捜したが、結局会えず帰ってしまった。当時、芳遠が留まった所を「駐蹕台」と呼んだが、その後、芳遠が太宗に即位すると「太宗台」と呼ぶようになった。

後に太宗が王となり再び耘谷を呼ぶと、さすがに御命に逆らえなかった彼は喪主の服装で王宮に入り、太宗の兄弟間の非人道的な殺戮について無言の抗議を行った。また、王であるとは知らずに偽りを告げ、後で事実を知ることとなった老婆は、自責感に駆られいつも洗濯していた岩の下の淵に身を投げて自ら命を切った。その後、この老婆が死んだ淵を人々は「老姑沼」と呼び、この村では毎年この老婆のために祭祀を行ったと言う。近くには芳遠が会えなかった師に対し、帰り道で礼を尽くしてお辞儀したという「背向山」があり、王様の駕籠が通り過ぎたという「車踰嶺」の峠が近くにある。そして雉岳山の岸には耘谷が留まった「弁岩」が、その竹を割ったような気性を持った耘谷の固い気概を今日の私たちに語ってくれる。